今のところ

今のところ、こんな風に考えてやってます。
調子の良し悪し関係なく頭がぐるぐるしたら落ち着く薬。
薬が効きすぎ主だった思考が消えて異所性に“死にたい”という刺激が発生したら主だった思考を増強する薬。
あと認知の歪みを矯正するカウンセリングが超重要。
心を壊しちゃったら、薬を飲むことが必要。
これは目の悪い人が眼鏡をかけるのと同じこと。
躊躇は毒。
おかげさまで主治医や心理療法士の先生との関係は良好なので、少しずつではあるけれど回復に向かってる。
ただ、調子のいいときの判断はやはり難しく、色々なことを詰め込もうとしてしまう。
でもね、あるとき気がついたのよ。
頭の中がぐるぐるしてるってことには変わりがないから、脳が暴走してると判断して暗くて静かなところで瞑想して、落ち着くタイプの薬を飲めばいいのだと。
ただ、死にたい気持ちが現れたときだけ違っていて、それは主だった思考が消えて異所性に“死にたい”って刺激が起きちゃってるんだと。
それは普段ちゃんとした思考が強く出てるときには隠れているけれど、そっちが弱くなったときに目立ってしまってそれで脳内が調律されちゃうんだと。
それって、心室細動と同じじゃん!
だから、死にたい気持ちが現れたときは良好な思考が強調されるタイプの薬を飲めばいいのでは?
ちょうどペースメーカーを入れるような感じで。
でも、脳にはペースメーカーってないから薬で代用。
これが合っているかどうかはわからない。
自分の体で人体実験してるようなものなのかもしれない。
でも、一度しかない人生だから、いろんな人の力を借りて、なるべくコントロールしていきたい。
うまくいくといいな。

触覚のこと

どう書いたら伝わるかな。
研究が進んだときに、これから私が書く内容が合っていると出るのか、間違っていると出るのかはわからない。
でも、自分が思い出した小さい頃のことや、その後の検査結果などから推測していることはある。
そういう経験者として、自分が危惧していることを書いておくのもいいかと思い、以下に記します。
先に言っておきますが、これは私個人の考えですから、今頑張っている子供たちに当てはまることなのかはわかりません。
気になったらお子さんに『もしかしてそういうことなーい?』とやさしく聞いてみて欲しいのです。
その子によって違うと思いますが、自分の場合はどうなのか話してくれるかもしれません。


まず、人は自分の体を五感を通じて認識してるのは、大体の人が納得できることだと思います。
自分がどんな姿をしているか、見下ろしたり、写真に撮ったり、鏡に写すとわかるのが視覚。
内蔵なんかを含め、見えないところまでどうなっているか人から教えてもらえるのが聴覚。
自分の体に触れてみたり、お母さんのおっぱいに触れてみたり、目を閉じて指先まで意識をしたりしているのが触覚。
自分の汗やおしっこやう○ちの臭い、お母さんのおっぱいの臭い、そんなのが嗅覚。
自分の腕を舐めてみる、お母さんのおっぱいの味を確かめる、なんてのが味覚。
それらから得られる情報を統合して、自分はどんな姿形をしているのか、判断しているのだと思います。
ここまではいいでしょうか?

でも、それじゃあその統合のしかたって、いつどんな風にして構成されるのでしょうか?

生まれてすぐにすべての機能がスタートする?
私はそんな風には思っていません。
だって、そうだったら心と体の性が一致していなくて悩んでいる人のことが説明できないもの。
それに、私の子供の頃の身体認知も説明できないもの。

私が説明できると考えているのは胎生期です。
生まれる前、お母さんのお腹にいる間に、そのとき入手できる情報で自分の体つきを定義してると考えています。
お腹の中だから真っ暗で、視覚による情報は入ってきません。
たぶん、ほぼ触覚だけ。
あと、体内や母体から入ってくる性ホルモンなどでしょうか?
ここで、体の神経系にごくわずかの問題が起きていたとします。
ちょこっと圧迫されていたとかね。
すると、その先からの情報は入ってきません。
性ホルモンだって同じこと。
どこかがほんのちょっと傷害されて、あるいは過剰に分泌されるなどして、情報がほんのちょっと変化してしまっていることもあるでしょう。
ほんのちょっとですよ?
さて、そんな状況でも、赤ちゃんは自分がどんな姿をしているか、頭のなかに思い描き始めます。
たぶん。
私の場合だと、先天性斜頸や股関節脱臼がありましたから、右半身や下半身からの情報が足りなかったのではないかと推測できます。

で、そんな不完全な情報を利用して自分の姿形を認識した赤ちゃんが生まれてくるわけです。
目を開けます。
ハジメテミタ、ソトノセカイ
アレ?ソウゾウシテタノト、ゼンゼンチガウスガタヲシタイキモノシカイナイゾ…
コリャマズイ…
ナントカシテイッチサセナイト…
たぶん、そんな感じだったのだと思います。
私はよく自分の両手を見ていました。
本来左右は対称的な形をしていますが、私の認識では同一でした。
それを必死になって理解しようとしているときに、箸を持つのは右手であることとか、鉛筆を持って字を書くことを教えられました。
もう完全にパニックです。
そりゃ箸を持つ手を覚えるのが遅くなったり、鏡文字を書いたりもするさ。
足の形なんて手とはまるで違うのがもう理解できなくて、正座して隠すことを覚えました。
当時の考え方だと、知恵遅れとされる状態でしたが、今考えてみたら、最初から体の形が本来の自分のかたちに合ってさえいたら、そんな問題は起きなかったわけで、知恵遅れと思った人をぶん殴りたい気持ちになりますね。
当時の医学じゃ仕方ないとわかっているからそうしないだけで。
ただ、教わったのがピッタリそのまま適用できる人だったとしたら単純に覚えるだけでよかったものがそうではなかったので、記憶力を発達させることができなかったのが心残りではありますが。

心と体の性が一致してなかった人はどうだったのだろう?
何かの折りに、小さい頃を覚えている方がいらしたら聞いてみたいところではあります。

さて、そんな感じだったというのはわかっていただけたでしょうか?

さて、ここで、触覚の話にようやくたどり着きました。

要するに、発達障害の当事者は、小さい頃に大混乱状態なのに、そこにさらに強すぎたり弱すぎたりする触覚を刺激して正常にしようなんてことをされたら…
当時の私だったら、たぶん恐慌状態でしょうね。
これ以上わけわかんないものを増やすな!って怒り出すかもしれません。

健常な方の場合、元から体の形は実際の体と一致した状態で生まれてきますから、感覚の一部が異常ならば、その異常部位を刺激して正常なバランスにするだけで、すべてが整います。
でも、発達障害の子の場合はそうではありません。
すでに崩れた状態なのを無理矢理運用しようとする過程で、さらにこじれた運用方法になってしまっているのです。
そこに余分な感覚刺激まで加わったら、なおいっそうどうしたらいいのかわからない状態になるのではないでしょうか?

発達障害の子は千差万別なので、これといった完璧なメソッドはないと思います。
だから親御さんも色々と試してみたくなるのでしょう。
ただ、本人にとってそれがよい方法なのかどうなのかは賭けになるのです。

だから、親御さんにはお子さんに伝えて欲しいことがあります。
『大丈夫だよ。君が努力しているのをよくわかっているよ。子供用として用意された語彙では表現できないことをやっているんだよね。大丈夫。シンプルな形を君が見つけるまで待ってるよ。大丈夫。それから始めたら、滅茶苦茶スピードが早くなるからね。今は君の課題に集中して♪』
子供だから、どこまで理解できるかはわかりませんが、心の底から『伝われー!』って念じたら伝わるのではないかと期待してます。

こんな症例もありますよ、ということで、誰にでも通用する話ではありませんが、書き記してみました。

今年最後の心理面談

今日は今年最後の心理面接の日でした。
まずは心配していた乳がん疑いの検査結果がよかったことを伝え、それから母に協力してもらって発達障害の幼児期の聞き取り調査が無事に終わったこと、その話の持っていき方などを報告しました。
そして、検査結果を聞きに行く前日にかなり泣いてしまい、夫とハングアウトをして受け止めてもらい、それでも無理な部分を寝る前と起きてからのソラナックスで解消したことを伝えました。
病院には母に付いて行ってもらったことも。
その上で、自分が今のように専門家の方の力を借りたり、薬に頼ってコントロールしていることで、かえって弱くなってしまっていないかについて相談しました。
ええっと、何から書いたらいいのかな…

心理の先生から聞かれたことからかな?

弱くなっている、という言葉に反応されたのです。

どんな風に弱くなったと感じるのか?

…精神科に通うようになる前までは、何かあったら一人で解決できていたのに、今はそうではなくなった。

人に頼ることを覚えていいこともたくさんあったけれど、一人で立っているという気持ちになれなくなってしまった。

で、話はいつしか自分自身をどう捉えているかに進んで…

鎧を纏っている、とっても強固な鎧を纏っている…

その鎧の中は?

自分の弱いところが入っている…

どんなところ?

汚かったり、脆かったりするところ…

その内側に入れるのは夫と血を分けた家族だけ…

人から完全人間と言われたことがある。

人に見せているのは鎧の外側だけです。

少し緩衝地帯を作ったほうがいいのかな?

六甲の山の中からイノシシが出てきて住宅街を普通に歩いていることが問題になっていて、それが山と人里の間に緩衝地帯となる草むらがないことが原因で…

自分はそのイノシシとか、ハリネズミやヤマアラシのような感じで…

緩衝地帯もないのに人里に下りては問題を起こしてしまう…

先生『ちょっと待って!あなたは今までの面談や聞き取り調査の結果からみえるものを考えるに、生まれついての特性や幼児期に経験したものからくる性格から表と裏がないというか、黒か白とかその間の柔軟な考え方が苦手なように見える(正確には思い出せないのが残念)』

苦手というか、子供の頃人の裏側を見てそれがすごく嫌で、自分はそれをやるまいと決めて、人に表ばかり見せてきた。

やりすぎちゃったかな?

その時の私のイメージ

自分⇔鎧(もしくは結界)⇔緩衝地帯⇔世間の人

自分の内側に入れる人=とっても身近な人

自分の内側=とても人さまには見せられないようなぶつくさと文句を言ったり、泣いたり、黒かったり、脆かったりする部分

但し、一人で車の運転をしているときは誰にも迷惑をかけるわけではないので、まわりの車や歩行者、バイク、チャリなどのことをギャーギャーやっている。

先生『会う人によって見せる面を、ある人には白9割黒1割、この人には白8割黒2割とかにすることは?』

え?

え?

え?

実は考えたことがなかった…

先生『あるいは鎧でも、頑丈な鉄製の鎧からスウェットのような柔らかい素材のものに変えるとか』

え?

え?

え?

実は考えたことがなかった…

先生『私はあなたがそこでびっくりしたことにびっくりしています』

私も自分がそこでびっくりしたことにびっくりしています。

確かに腹の探り合いのようなことは嫌いで、自分の特性からもそういう表裏のあるようなのは苦手というのは可能性としてあったけれど、まさか自分の中にまったく存在していない考え方だったとは思わなかった。

だって、そういう腹の探り合いをする人をちゃんと見てきたし、物語でそういう人が出てきても普通そうだよねと思ってきたし…

まさかだよ…

そんなん、なんで考え付かなかったんだよ…

ものすごくびっくりしました。

で、なんだかそう考えた途端、肩に背負っていたものが急に軽くなったんです。

不思議なくらい軽くなったんです。

一瞬ではありますが、鎧の素材がスウェット製になりました。←

そして、ほんとになんで考えてこなかったかわからなかったけれど、自分の中に人に見せる黒と白の割合を計算するメーターが出来ました。←

なんだかとっても肩が軽いです。

結界魔法の練習はそれほど熱心にやらなくてもよくなりました。

で、冒頭の精神科にかかることで自分が弱くなってしまったように感じていた一件ですが、なんでもかんでも薬に頼ってしまうとか、最初から最後まで何から何まで人に聞いてもらうとかそういうんじゃなくて、頼るんではなく活用していると考えればいいのではないか?と先生から言葉がありました。

私は今回、もしかしたら乳がんかも、あるいは胸の痛みは癌による痛みの可能性は低くても不整脈があることから狭心症かも、と自分にとって重大な危機であったわけで、それを夫に話を聞いてもらうことと、薬を活用することで乗り越えることができたのだと、考えてもいいのではないか?と言われたのです。

確かに夫が単身赴任中で子供もいない一人暮らしなのに、誰にも見られないところでぽっくり逝っちゃったらどうしよう?という不安があったわけで、それをハングアウトや薬を活用することで乗り越えたと考えることができたら、自分が弱くなったと考えるよりかずっといいように思います。

そう考えていいのだそうです。

なんかとってもいい話し合いが出来たように思います。

心理の先生との面談時間に話した内容はこれだけではないのですが、すべてを書くこともできませんし、ここまでを記録として残しておきたいと思います。

今日のカウンセリング

先週のカウンセリングの時に大量に持ち込んだ抽象画を今日のカウンセリングで返してもらうことになっていたのですが、

えええっと、戻ってきませんでした!

そりゃそうです。
数が多いもん。
一週間で解析できるわけないよ(笑)

そんなわけで、カウンセリングでは全然違う話の内容になりました。

広汎性発達障害の診断を受けないか?って話。

キチンと結果を出すには母に幼児期のことを聞かなくてはならなくて、私はこの年になって母に昔のことをほじくりかえすような質問をして困らせたくないのです。
悩みます。

これで私がせいぜい二十代だったら違ったのです。
その倍生きてます。
親に心配をかけさせる年ではないのに。

精神科の主治医と話し合ったカウンセラーの先生が言うには、母親に聞くのが嫌みたいだけれど、自分でアスペに関する本を読んで勉強したりもしているようだし、現状の項目だけやってみるのもいいかもしれないとのこと。
夫と次の面談日である一週間後までに相談してみてほしい、だそうです。
現状のも、客観的な意見がほしいので、自分で書くのではなく夫に聞いて書かなければいけないとのこと。

さて、どうしようかなぁ…

つらい経験を理解されず生きていく選択

このことについて考え始めたのはサッカー日本代表の監督がオシムさんだったときのこと。
たしか彼が何かの時にそのようなことを言っていたような…

正確なことを覚えていらっしゃる方がいらしたら教えていただきたいけれど。

──────

はてな記法がまだよくわかりません(覚える気がないとも言う)ので、適当に罫線入れてみた。

なんか時々思うんですよ。
自分がいかにひどい経験をしたか、お前らわかってんのか?って。

でも、こうも思うんです。
本当に理解させようと思ったら、同じつらい体験をさせなくちゃいけない。
あるいは、そこまででなくても理解できるくらい詳細に話さなくてはならない。

で、自分に聞いてみるんです。

あんた、そんな自分みたいな経験、人にさせたいか?

そりゃね、精神科のカウンセラーのような専門職の人ならいいんです。
私担当の人が言うには、『自分にも相談する人がいる、その人に話すためにプライバシー保護のために、相談するときは実名を出さないでほしい』って言ってたくらいなので、重荷になるようなことを話しても大丈夫らしいので。
それでもやっぱり気は遣いますが。

でも、それ以外の普通の人に話すのは、相手を傷付けてしまいそうで…

ぶっちゃけたい時は一杯ある。

ぶっちゃけてしまえば、心の澱がなくなって楽になるから、もっと自由に動けると思うのです。

でも、出来ないよね♪

それしたら、私は私につらい経験をさせた人たちと同じレベルに堕ちてしまうから。

幸いなことに、私の行きつけの小説サイトに、そんな私でも癒されてしまうくらい素敵なヒーローの出てくる小説がありまして、何回も読み返しています。

こういう部分は夫に背負わせたくないので、とてもありがたく思っています。

文章ぐちゃぐちゃなので、いつか訂正するかもしれません。
いつもぐちゃぐちゃだろう、というツッコミは無しの方向で♪

つらい経験をした人が人を責めている姿。
見ててつらい。
人を責めつつ、自分自身の身体もザックザックと切っているように見えてしまう。
何か言葉をかければ逆効果になってしまいそうで、
本人には何も言えない。
落ち着いてほしい、
どうか、専門の人の力を借りてほしい。
自分自身を傷つけないでほしい。
そうは思うけれど、
きっと本人が落ち着くまで、
何の言葉もその人には届かない。
あの状態になってしまったら、
敵か味方か、
あるいは傍観者か、
そういう見方しか出来なくなってしまう。
見ていて痛々しい。
かといって、
私は味方にはなってあげられない。
一緒になって、相手を責めてやることが出来ない。
たいていは…
たまに何故か不器用な私でもそういうことができることがあって、
自分でも不思議なんだけれど…
どこが違うんだろうね?

読者になってくださった方へ

念のため

私のブログは万人が読んでいいものだとは思っておりません。

読んだ人によっては傷付いたり、攻撃的になってしまうかもしれません。

でも、そうなってしまうのは私の本意ではありません。

ハイクにアップ告知したりしなかったりしているのもそのためです。

読まれる場合、その点お汲み取りください。